社交不安障害SAD(社会不安障害、社会恐怖、あがり症)の治療
社交不安障害(SAD)とは何でしょう、あがり症とはどうちがうのでしょうか
社交不安障害(SAD、社会不安障害、社会恐怖)とは、人前で何かをすると緊張してしまい、ひどく苦痛であるか、それから逃げてしまう、避けてしまう状態(避けてしまうことが必須ではありません)のこととされています。人前で何かをするときに緊張するのは普通です。例えば、学校の授業で当てられて、本を読むとき、何かを発表するとき、会社の会議で何かを発言するときに緊張するのは普通です(このページでは「スピーチ恐怖症」と呼びます)。それが、授業に出席できない、会議に出られないとなると大問題です。出席しても苦痛が激しいと、自分の思っていることが一切いえなかったたり、さしさわりがあります。人と食事が出来ないひともいらっしゃいます。何を意味するかというと、レストラン・食堂で食事ができないので、学校でも昼ご飯を食べずに過ごすしかないのです。それがつらくて学校に行けない人もいます。
苦手なことをするのは非常に苦痛でしょうが、苦手のままにしておくと、大変なことになってきます。クラスの授業のことだけではありません、友達関係でも、いろいろと損をします。損をするのが苦痛で、孤立してしまうこともまれではありません。学校を出ても、言いたいことが言えないために、就職の面接に行けなかったり、面接でもうまく話せなかったりします。その結果、したい仕事が出来なかったり、なりたい職業につけなかったり。
学生時代には症状がなかったのに、働き出してから症状が出る人もいます。特に大変なのが会議と朝礼です。会議でうまく報告できないことがあると、ずっと悩んでしまいます。その結果、会議を休んだりすると、その後、普通の仕事もつらくなります。朝礼で当番を作っているところもあります。で、当番の日は遅刻したり、休んでしまったりします。異性との話が苦手な人も多いです。その結果、恋人が出来なかったりします。僕(私)は女(男)嫌いだと強がりを言っている人も多いです。しかし治療の結果、良くなるとすぐに恋人ができてしまうのです。その人の人生はその前後で大きく変わるのです。
あがり症
あがり症は学術的な用語ではありません。辞書では、あがり症を「人前で極度に緊張しやすい質(たち)であること」(大辞泉)、「恥ずかしがり屋」を「ちょっとしたことで恥ずかしがって人前に出ることを嫌う性質。また、その人」(広辞苑第6版)となっています。このように、あがり症、恥ずかしがり屋は病気や精神障害ではなく、正常範囲内の性格や気質を表す言葉なのです。しかし、現在のアメリカ精神医学会の診断基準DSM-5(2013改訂)のSADの診断基準では、その精神的な苦痛が重ければ、あがり症の方も、診断基準に合致し精神障害とされることもありえます。
このことは、多くの精神科医に衝撃を与えました。今まで「正常範囲の性格」と考えていたのに、突然、治療対象となったのです。多くの精神科医にとって「正常範囲の性格」は当然、治療の対象ではなく、それまで、万が一受診しても軽い安定剤を処方するなどして「お茶を濁して」きたのです。それが、診断名を与えられ、治療の対象であることが明らかにされるたことは、戸惑いや、果ては「反発」が起きました。しかし、このような態度を安易に批判することもできません。精神科の臨床では「患者」であること自体が大きな負の意味がある、暗黒な時代が長くあったのですから。そこで精神医学の創始者たちは安易にだれでもかれでも「患者」とすることを戒めていました。
「現代のうつ病治療」のページにも少し説明しましたが、ごく普通の人が病むという過酷なアメリカの競争社会の現実は、多くの人が、もう自分が精神科患者であることを隠すのをやめ、通院歴などを明らかにするに至りました。もともと「内因性うつ病」に関心が薄かったことも関係しています。その結果、多くの人々がテレビショーで自らの病歴を明らかにするという動きも起こりました。脱差別化destigmatizationとも呼ばれます。その結果、過去「正常範囲の性格」であったものが、診断名を与えられるようになってきたのです。ですので、それまでの戒めも考慮して、診断基準を守り、安易に「精神科患者」としてしまわないように注意し続けないといけません。一方で、それまで、精神科医にとって「正常すぎて治療不可能」と思われていたものが、治療可能との「エビデンス」も積み上がってきたことも見逃せません。診断基準の成立と変更、拡大は闇雲に行われたわけでないのです。ちゃんとした理由があるのです。
その2 / 自己主張が苦手なひと